吉川 弘之
横断型基幹科学技術研究団体連合 会長
独立行政法人 産業技術総合研究所 理事長
東京都千代田区霞が関1-3-1
日本学術会議は科学者を代表するものであるが,この場合の科学者は70万人いるとされている.それは日本学術会議の210名が選び出される母体としての学協会で研究を行っているものの数である.選出は学協会の推薦を基本としているのであるが,それに関与する「登録学術研究団体」は1,400に及ぶ.
70万人が1,400の学会に属しているのだから平均500名であり,それに対応して登録団体となるために,人文社会系で100人,農200人,理300人,工・医500人が最低構成人数として定められている.
日本学術会議の会員となって改めてこの数を見たとき,私は少なからず衝撃を受けた.登録されている学会の数(1997年当時で1221)があまりに多い.そして学会の構成員があまりに少ない.学会というのは,学問領域に対応するもののはずであるから,このように多数の「領域」が存在することに驚かされたのである.学問が社会的に機能を求められている時代に,細分化された領域はそれぞれどんな機能を持ち得るのであろうか.とくに現代において学問が必要となる課題は複雑で統合的である.私はそこで,「俯瞰的視点」の重要性を主張せざるを得なかった.
幸い俯瞰的視点という考え方は日本学術会議で受け入れられ,一般社会でも広く使われるようになった.しかし,この視点をどのように作り出すかについては,未だ十分な方法があるわけではない.この時期に,計測自動制御学会などが中心となって「横断型基幹科学」を提案したことはまことに時宜を得たものであり,大きな発展が期待される.
ところで学会は何故このように細分化されるのであろうか.会員数が数百人では,そこでの関心事は特定の研究課題か,一つの学説なのではないかと考えられる.学問領域というのは,それ以上抽象化されると意味を失うまで十分抽象化された概念によって,できるだけ多くの個別事象を包含し,しかも抽象化によってそれらの事象が共通の方法で取り扱われるようになったものであり,包含される個別事象が多ければ多いほど,その領域の価値が高い.従って,抽象化によって起きてしまう意味の喪失の阻止と,包含する事象の数の最大化との均衡において領域は辛うじて成立するもののはずである.1,400の学会が,その苦しみの中にあるかどうかは別として,細分化の歴史を考えてみよう.
学問のはじまりは分類である,と言われることがある.確かに学問は対象を理解することを一つの条件としているから,異なる対象を区別することはその基本である.そして,その分類の視点によって独自の分類の体系ができ,それは独自の領域と言ってよい.代表的なのはアリストテレスの動植物の分類であるが,視点を明確に定めることによって成功したのがリンネの植物分類学である.
成功というのは,リンネがすべての植物を包含し,分類を厳密に階層化して示すことにより,抽象的な体系を作り得たからである.しかしこの場合,最も抽象的な類は「植物」ということになって意味は空白となってしまい,そこから具体的な植物を生み出すことはできない.
アリストテレスを批判するカッシーラーは,直観による抽象は不毛であるとし,数や空間概念などに導かれてする抽象が現在の学問領域を生むと言う.運動の抽象によって二次方程式を得れば,パラメータの変更によって円や楕円が得られる.円や楕円は,具体的な運動である.
学問領域というのは,前述のように抽象化によって普遍的理解を生む方法を持っているが,その理解の結果,再び具体的なものへ「帰って」行けるかどうかが問題である.カッシーラーの指摘はその意味で重要であるが,彼の例は楽観的過ぎる.多くの学問的研究によって,私たちは具体的なものを深く理解するようになった.それは非常に多くの法則を手にしたことを意味している.しかし,これらの法則から必要なものを選び,再び具体的なものへ帰って行く道筋を私たちは知らない.その理由は,カッシーラーが考えていたのは同じ領域へ帰ることだったのだが,実は彼が考えていたよりも遥かに多くの領域が生み出されたのであり,しかも当然のこととして,帰るべき現実とは多くの領域にまたがって存在しているものであり,円や楕円はその意味では現実ではなく,領域内に止まる依然として抽象度の高い要素に過ぎないということになるであろう.科学者たちは長い間このことを考えて来た.たとえば国際科学会議(ICSU)が、既に1931年に学問領域の交流をその最重要な目的として設立されたのである.学問領域の細分化は,避けられない傾向であり,従ってそれに対応する方法を常に案出し続ける必要がある.横断型基幹科学は,その意味で歴史的な使命を持つものと考えるべきである.
(2003年4月7日受付)